中村友哉
CHIKAKEN 工場長
竹に穴をあけ、あかりを灯す「竹あかり」で初めて起業した「CHIKAKEN(ちかけん)」。2007年の会社設立以来、全国や世界各地で竹あかりを制作、設置を行ってきた。制作の要を担う存在が工場長の中村友哉さんだ。 友哉さんとCHIKAKENの出会いは2009年2月、友哉さんが大学卒業を控えた2月のことだった。まだ就職先の決まっていないときにCHIKAKENの池田親生さんが企画するセミナーに参加した。以来、CHIKAKEN主催のイベントに参加したり、友哉さんの就職した熊本市内の洋服屋に親生さんが顔を出すなどして交流を続けた。 初めてCHIKAKENの仕事を手伝ったのは、2010年12月の表参道での竹あかり設置。時折手伝う中で次第に竹あかりの持つ、優しい魅力に惹かれていった。転機となったのは2011年1月の滋賀県大津での竹あかり設置を手伝ったとき。ちょうどCHIKAKEN創業時のスタッフが辞めたこともあって入社を勧められたのだ。2011年2月、勤めていた洋服屋を辞めCHIKAKENに半年の契約で入社した。 入社直後の2011年3月11日、未曾有の大震災が東北地方を襲った。東日本大震災だ。発生の翌日にはCHIKAKENの池田親生と三城賢士は現地へ支援へ向かっていた。その際、友哉さんは熊本に残り後方支援を担当。友哉さんは当時を振り返り、二人が被災地へ向かう姿を見ながら「(震災もボランティアも)テレビの向こうの話だと思っていた。ほんとうに行くんだ!と驚いた」という。 半年間の契約期限が近づいてきた7月。静岡県つま恋で開催された「ap bank fes」に竹の遊具設営で参加するなど、県外遠征に同行するにつれ「もう少し続けたいな」と思うようになり、10月開催の熊本城周辺を竹あかりで彩る「みずあかり」まで続けることとした。 「みずあかり」に関してはその規模と美しさを周囲から幾度となく聞かされていた。だが初めて自分で関わり、また、大勢の市民ボランティアの方々に対して制作指導をして一緒につくりあげた「みずあかり」は想像を大きく超え、「今までにない種類の感動」を味わったという。そして同時にこの竹あかりを「続けていきたい!」と強く感じた。以来、友哉さんは現在に至るまでCHIKAKENの制作を一手に担い続けている。 これまでに数多くの演出現場を経験してきた友哉さんだが、2011年の「みずあかり」と並んで、特に印象深い経験が2012年2月から3月にかけての出来事だ。先述のように東日本大震災発生直後から復興支援に取り組んできたCHIKAKEN。彼らの活動の一つとして、福島県の子どもたちを熊本に招き自然の中で遊んでもらう、というものがあった。友哉さんはそのための募金を集めるため、単身東京へ向かったのだった。ドキドキしながらも初日を終えると集まった金額は501円。募金してくれたのは500円の人と1円の二人だった。その結果を親生さんに伝えると、予想に反して褒められたのだという。やる気が出た友哉さんは創意工夫を懲らし1ヶ月で24万円を集めるに至った。3月11日の東日本大震災慰霊祭においては宮城県石巻市と福島県相馬市の2箇所で竹あかりの演出を経験。友哉さんは甚大な被害を受けた石巻市尾崎地区に滞在し、住民たちと一緒に竹あかりをつくり上げた。 都心での募金集め、慰霊祭、熊本でのキャンプといった一連の経験は友哉さんを大きく成長させた。友哉さんの表現によれば「自信がついて、下通りの真ん中を歩ける気がした」そうだ。下通りとは熊本市内最大の繁華街の通り名である。入社してからの2年間で「景色が変わった」と友哉さんは語る。いろんな地域に行き、様々な経験を経て数多の感動をし、自信がついたのだった。 CHIKAKENで働き出して10年が経過した。その間、竹あかりの認知は高まり、演出の規模は大きくなっていった。全国に仲間も増えた。また、2016年の熊本地震や2020年の球磨川流域における豪雨災害などでCHIKAKENは迅速で広範に、丁寧な支援を続けてきた。10年前には驚いたこともいつしか当たり前の光景になってきた。人々に感動を与え、有事の際には協力し助け合うことが日常化した。そんな状況に自身の感覚が鈍くなっているのではないかと不安になることもあるという。 友哉さんは「CHIKAKEN」と知り合った当初、4,000円の「竹あかり」ランプシェードを1つ購入している。これまでに何千、何万という「竹あかり」をつくってきた友哉さんだが、大切な思い出の一品だ。購入を決めたのはシンプルに「かっこよさ」だったそう。今でも時折眺めながら、当初の感動や思いを忘れないようにしている。 「竹あかりを見て汚いという人はいないと思うんです。万人受けするものだと思う。周囲の景観に溶け込んで、嫌がる人がいない存在。みんなで一緒につくって、あかりを灯したら絶対に綺麗ですしね。決して悪いものじゃないことが続けてこられた一つの証明だと思います。みんなの想火が色んな人に竹あかりを知ってもらえるきっかけになったら良いなと思います。」